1882年、イタリアの少年マルコは母を探してアルゼンチンへ渡った。アニメ「母をたずねて三千里」の舞台だ。
この時代、アルゼンチンはヨーロッパから人々が出稼ぎに行く先進国だった。穀物と牛肉を世界に輸出し、1929年には世界第5位の経済大国にまでなっていた。ところが、その後の転落が凄まじかった。世界恐慌、ポピュリズム政治、軍事クーデター、デフォルト。先進国から発展途上国に転落した唯一の国として、アルゼンチンは経済学の教科書に名を残すことになる。
ノーベル賞経済学者サイモン・クズネッツは「世界には4種類の国がある。先進国と途上国、日本、そしてアルゼンチンだ」と言ったとされる。そんな波乱の国で、独自のサーカスが生まれた。
テントの中に、もう一つのアルゼンチンがあった
1886年のある夜、アルゼンチンの草原に大きなテントが立っていた。ポデスタ兄弟のサーカスだ。観客は農民や出稼ぎ労働者たち。前半は従来のサーカスだった。ジャグリング、アクロバット、馬術、パロディ。笑いと歓声でテントが揺れる。
そして後半。照明が変わり、ステージが静まり返る。幕が上がると、そこに現れたのはガウチョ——南米の草原を生きた、流れ者の牧童だ。
演じるのは「フアン・モレイラ」。権力者に土地を騙し取られ、警察に追われ続ける男の物語だ。観客たちはこの話をよく知っていた。農民として、移民として、自分たちもまた不正な権力に踏みにじられてきた人間たちだった。舞台の上でフアン・モレイラが追い詰められていく。するとその時、客席の農民が立ち上がった。
「フアン!逃げろ!」
叫びながら舞台に駆け上がり、懐からナイフを取り出して、舞台上の敵役に向かっていった。フィクションと現実の区別が消えた瞬間だった。
「モレイラの真似をした」として逮捕者が出た
公演が終わると、ガウチョの扮装をして「フアン・モレイラの真似をした」として逮捕される者が出た。警察は上演禁止令を出すほど警戒し、公演のたびに当局が神経をとがらせた。サーカスが社会を揺さぶっていた。
この様式は「シルコ・クリオージョ(Circo Criollo)」と呼ばれ、前半の身体技芸と後半のガウチョ演劇を組み合わせた、アルゼンチン固有のサーカス形式として定着していった。1880年から1910年にかけて「低俗な芸能」から「アルゼンチン国民演劇の起源」へと評価が変わっていった。
子供たちの夢は、サーカスに入ることだった
シルコ・クリオージョのテントが町にやってくると、子供たちが走り出した。大人たちは農場を持ち、工場で働いた。しかし子供たちの目には、サーカスが別の世界への扉に見えた。空中ブランコ師、道化師、馬の上に立つアクロバット、そして夜のステージで観客を黙らせる俳優——それはどれも、畑仕事とは違う生き方だった。
シルコ・クリオージョは芸能の揺り籠でもあった。タンゴの神様と呼ばれるカルロス・ガルデルも、喜劇俳優のルイス・サンドリーニも、このサーカスから巣立っていった。
ポデスタ一家は何世代にもわたってサーカスを続けた。父が舞台に立ち、息子が道化師になり、孫がアクロバットを覚えた。家族ごとテントに住み込み、草原を移動しながら上演を続ける——そういう生き方が、一つのアルゼンチンの姿だった。サーカスは首都から遠い町にも、ランプの光しかない村にも訪れた。サーカスが唯一の娯楽だった場所が、アルゼンチンにはたくさんあった。
テントが畳まれた後も、何かが残った
やがてテレビが来て、映画館が来て、大規模なテント興行は姿を消していった。しかしアルゼンチンのサーカス文化は街に溶け込んだ。
ブエノスアイレスの公園では今も、シルクの布をぶら下げてエアリアルを練習する人の姿が見られる。信号待ちでジャグリングするパフォーマーが立っている。市政府は若者向けに無料のサーカスクラスを提供している。
経済は転落した。政権は何度も倒れた。それでもサーカスだけは続いた。草原のテントの中で、農民の男が「フアン!逃げろ!」と叫んだあの夜から、百年以上が経つ。あの男の子孫は今日も、ブエノスアイレスの公園でシルクの布の練習をしているかもしれない。

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