初めての落語なら「井戸の茶碗」!笑えて泣ける、江戸の正直者の物語

落語を一席だけ聴くとしたら何がいいか、と聞かれたら、私は「井戸の茶碗」を推す。笑える。温かい。後味がいい。そして聴き終わった後、こういう人間になりたいと思わせてくれる。

まず、井戸の茶碗とは何か。タイトルだけ聴くと台所道具の話のようだが、そうじゃない。「井戸茶碗」とは、当時珍重された高麗茶碗の一種だ。朝鮮半島から渡ってきた陶器で、奈良の興福寺の井戸氏が所有していたためこう呼ばれた。素朴でざっくりとした見た目でありながら、茶人の目にはその不完全さそのものが美しく映る。知っている人には「わかる」が、知らない人には「ただの古い汚い茶碗」にしか見えない——これがこの噺の仕掛けの核心だ。

あらすじ——ネタバレしない程度に。登場人物は三人。「正直清兵衛」とあだ名される屑屋の清兵衛。貧しいが誠実で、正直を絵に描いたような男だ。千代田卜斎という浪人。お金に困っているが、武士の誇りは捨てていない。高木佐久左衛門という若い侍。細川家の家来で、気持ちのいい男だ。この三人が、卜斎がお金に困って売り払った仏像をきっかけに縁を結ぶ。仏像を買い取った清兵衛から高木へと渡る過程で、思わぬ「もの」が出てきてしまう。そこから始まるのが「お金の押し付け合い」だ。「これはあなたのものだから受け取ってください」「いいえ、売ったものから出てきたのだからあなたのものです」——清兵衛はその間を何度も何度も行ったり来たりさせられる。使い走りに行ったり来たりで仕事にならない清兵衛が途方に暮れるくだりが、笑いどころのひとつだ。そして話はもう一段、予想外の方向へ転がっていく。

この話の笑いどころ。根本的なおかしさは「全員が正直すぎる」ことにある。誰も悪いことをしていないのに、誰も得をしようとしないから話が一向に前に進まない。普通の人間なら「ラッキー」と思うところで全員が「いや、これは受け取れない」と言い張る。善意に臭みが漂ってきたら聴いていられなくなる。志ん朝はそこをすいすいと流れるように運んでいた。善意の臭さに気づく余裕もなく、三者のすがすがしさが小気味よい、と評した言葉が残っている。

志ん朝の名演。5代目古今亭志ん生の演が「名演中の名演」といわれる。志ん生から受け継いだ3代目古今亭志ん朝もまた名演を残した。ある落語会で志ん朝の「井戸の茶碗」を聴いた観客が、噺が終わって噺家が高座を降りてもしばらく席を立てなかった、という逸話が残っている。江戸の武士の本分は武術でもなければ出世でもなく、清貧であったことを、志ん朝は見事に演じている。

喬太郎のセンス——「歌う井戸の茶碗」。柳家喬太郎はこの古典に、とんでもない改造を施した。登場人物が次々と替え歌をうたうオペレッタ形式の「歌う井戸の茶碗」だ。替え歌の元ネタはウルトラマンや「木綿のハンカチーフ」など幅広く、喬太郎自作の「東京ホテトル音頭」まで登場する。「歌う落語会」への出演を求められた喬太郎が「ならば落語に歌をいっぱい入れてみよう」と作ったもので、昔の美空ひばりの時代劇ミュージカルのような、なぜここで歌うんだ、なぜ踊るんだというあの軽いノリが「井戸の茶碗」に合ってしまった、と本人が語っている。原作を愛しているから、こんな遊びができる。

この噺が日本人に愛される理由。出てくる人物がみんな正直で真面目で優しい。聞いていて面白くもあり嬉しくもなる演目だ。現代の価値に換算すると、仏像から出てきた50両は約400万円、殿様が茶碗を買い取った300両は約2,400万円に相当する。その金をめぐって誰も「ラッキー」と言わない。正直者が報われる社会であってほしい。名乗り出た人間に福が来てほしい。そういう願いを、江戸の人間も現代の人間も、変わらず持ち続けているということだろう。

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tokaijiruのアバター tokaijiru 都会汁代表

都会汁。私は、どこにでもいて、どこにもいない。長い年月を経て、ようやく見えてきた世界の裏側と新しい日常。ここは、私が拾い集めた断片を静かに吐き出す場所。通りすがりのあなたに、何が伝わるかはわからない。

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