高知県土佐市に、仁淀川沿いの小さな和紙工房があった。昔ながらの「手すき」で土佐和紙を作っていた。水に天然繊維を溶かし込み、すくい上げてシートにする。そのシンプルな技術を、職人たちは長い時間をかけて磨いてきた。
しかし時代が変わった。1900年代に入り、機械で安価に大量生産できる洋紙が登場すると、和紙業界全体が苦境に立たされた。手すきの技術がいくら優れていても、コストで勝てない。市場が縮んでいく中で、工房の人間たちは出口を探していた。廣瀬晋二も、そのひとりだった。
ある講演の一言
廣瀬晋二は、世界で初めて合成繊維を開発した京都大学教授の講演を聴いた。教授はこう言った。「天然繊維でつくられた和紙は時間がたつと劣化する。しかし合成繊維は劣化しない。手すきの手法で合成繊維がつくれれば、用途も可能性も広がる」。
廣瀬はこの言葉を聴いて、何かが動いた。和紙職人の技術は「水に繊維を溶かして漉く」というものだ。天然繊維でなければならない理由はない。合成繊維で同じことができれば——劣化しない、布でも紙でもない何かが生まれる。
3年間
廣瀬晋二は京都大学高分子化学研究室と3年間の共同研究を行った。和紙職人と大学の化学者という、普通は交わらない組み合わせだ。当時「ビニロン」と呼ばれていた日本初の合成繊維を、和紙を漉くように水の中に分散させてシート状に成形する試みが続いた。
手すき機に手作業で材料を流し込み、何度も配合を変えながら試行錯誤を繰り返した。うまくいかない理由は山ほどあった。合成繊維は天然繊維と水への馴染み方が違う。均一に分散しない。漉いてもばらばらになる。シートにならない。それでも廣瀬は続けた。
1958年、成功
廣瀬晋二は日本で初めて合成繊維「ビニロン」を用いた湿式不織布の開発に成功し、1958年に廣瀬製紙を設立した。織らない。編まない。それでも布になる。和紙の技術が、まったく別の素材を生んだ瞬間だった。高知の小さな工房から、「不織布」という素材の日本における歴史が始まった。
ただし、成功したからといってすぐに世界が変わるわけでは、なかった。


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