ルン婆は働いていた。毎日、毎日、毎日である。
朝六時。まだ外も暗いうちから、ルン婆は無言で起き上がり、床を這うように部屋中を巡回する。腰を曲げ、雑巾を押し、ソファの下へ手を突っ込み、机の脚へ頭をぶつけながら、それでも黙々と床を磨き続けていた。
だが恐ろしいのは、この家では誰もそれを“異常”と思っていないことだった。
「ルン婆、そこゴミ残ってる!」 「ルン婆ァ!髪の毛吸って!」 「ルン婆、今日ちょっと動き鈍くない?」
完全に掃除機として扱われている。しかも雇い主は鬼嫁のアイさんである。この女が厳しい。パンくず一粒で激怒。ポテチを床へぶちまけても「あとよろしく〜」の一言。しかも、自分でソファの下へ押し込んでおきながら、「最近ルン婆、吸引力落ちた?」などと言い出す始末。
ルン婆は耐えていた。
昼になると、ようやく部屋の隅へ戻る。世間では休憩という。だがルン婆にとって、あれは“充電”だった。
焼き芋を食べるのである。小さな椅子へ座り、無言で芋を食べ、しばらく目を閉じる。そしてまた立ち上がり、床へ戻る。
夕方も芋。 夜も床。
人生とは何か。 自由とは何か。
そんな哲学が、ルン婆のしわだらけの額に少しずつ刻まれていた。
そして、事件は起きる。
その夜、アイさんは深夜テンションでポテトチップスを盛大にぶちまけた。しかも足でソファの下へ押し込み、「まあルン婆がやるか」と笑いながら寝室へ消えていったのである。
その瞬間だった。
ルン婆の中で、何かが完全に切れた。
長年積み重なった怒り。 踏みにじられた尊厳。 芋だけで動かされる人生。
すべてが臨界点へ達した。
深夜二時。
家族全員が寝静まる中、ルン婆は静かに立ち上がる。いつもの掃除用雑巾を手にしていない。その目には、革命家の光が宿っていた。
向かった先はキッチン。そこに置かれていたのは、ドリアン。
果実界の破壊神。 匂いという概念への反逆。 生半可な覚悟で触れてはいけない禁断の果実。
ルン婆は無言で持ち上げた。
「ぬおおおお……!」
高齢者とは思えぬ気迫。そして床へ叩きつける。
バゴォッ!!
ドリアンが割れた瞬間、家の空気が変わる。
臭気。いや、臭気などという生易しいものではない。空気そのものが腐敗し、濃縮され、物理攻撃へ変わったような圧倒的刺激臭がリビングを埋め尽くした。
ルン婆は止まらない。
割れたドリアンを抱え、そのままアイさんの部屋へ突撃。中へ豪快に放り込むと、外側から鍵を閉めた。
数秒後。
「ギャアアアアアアアアアアアアア!!!!!!」
マンション中が震えた。
「なにこれぇぇぇぇぇ!!!!くっっっっっさ!!!!!無理無理無理無理!!!!死ぬ!!!!肺が!!肺が腐るぅぅぅぅ!!!!」
さらに咳。絶叫。壁へ激突する音。
「誰ぇぇぇぇ!?!?!?ルン婆ァァァァァ!!!!開けろォォォォ!!!!」
断末魔である。もはや人類が発していい声量ではなかった。
だがルン婆は、一切動かなかった。長年、床と共に耐えてきた怒りが、ついに完遂されたのだ。
そして翌朝。
ルン婆は、見たこともないほど晴れやかな顔をしていた。
ゆっくりと家を出る。もう雑巾は持っていない。向かった先は近所のグラウンドだった。
朝日。 風。 土の匂い。
誰もポテチを落とさない。 誰も「吸引力が落ちた」などと言わない。
ルン婆は満面の笑みで、グラウンドの外周をゆっくり歩き始めた。
それは掃除ではなかった。
自由だった。

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