「摩擦係数日本一」の家で暮らす男。滑り止めに憑りつかれた数奇な日常

正男が滑り止めを貼り始めたのは、3年前の冬、玄関先で転んだことがきっかけだった。尾てい骨を打った。痛かった。それだけのことだ。しかし正男にとって「転ぶ」という出来事は、単なる事故ではなく、敗北だった。地面に負けた。重力に屈した。許せなかった。翌日、ホームセンターで滑り止めシートを買った。玄関マットの裏に貼った。完璧だった。問題はそこから始まった。

拡大する戦線

玄関が制圧されると、正男の目は廊下に向いた。フローリングは滑る。貼った。浴室は当然として、キッチンのタイルも危ない。貼った。階段は一段ずつ。カーペットの下にも念のため。ラグの四隅、ソファの脚、冷蔵庫の下。靴下の裏にも滑り止め付きのものを購入した。スリッパも当然、滑り止め強化型に替えた。屋外用の靴には滑り止めスプレーを週2回塗布した。6ヶ月後、正男の自宅における摩擦係数は、おそらく日本国内でもトップクラスに達していた。

生きづらさ、具体的に言うと

まず、歩けない。正確には歩けるのだが、足が思った通りに前に出ない。通常、人間は歩くとき、踏み出した足が地面をわずかに滑ることで重心を前に移動させる。その微細な滑りが、歩行の滑らかさを生んでいる。摩擦が高すぎると、足が地面に吸いつき、前進するたびに抵抗を感じる。正男の歩き方は、次第にロボットのようになっていった。一歩一歩を意識的に持ち上げ、置く。歩くというより、設置する。廊下を渡るのに集中力が要るようになった。

次に、物が動かない。コップを少しずらしたいのに、テーブルのあらゆる面に貼られた滑り止めシートが抵抗する。冷蔵庫を1センチ動かすのに、男二人がかりになった。椅子を引くとき、「ギ」という音がして隣の部屋まで聞こえる。来客があるたびに正男は「椅子は持ち上げてください」と説明しなければならなかった。

そして最大の問題は、玄関だった。外出するとき、正男は玄関マットの上で靴を履く。高摩擦のマットの上に、高摩擦の靴下で立ち、高摩擦の靴を履こうとすると、足が動かない。体が前に傾かない。靴が入らない。毎朝、玄関で5分かかるようになった。

摩擦との和解

正男は今も滑り止めを貼り続けている。やめられないからだ。滑り止めを剥がすことは、負けることだと思っている。あの冬の玄関先に、また戻ることだと感じている。

ただ最近、一つだけ気づいたことがある。あの日、転んだのは、滑ったからではなかった。前を見ていなかったからだ。

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この記事を書いた人

tokaijiruのアバター tokaijiru 都会汁代表

都会汁。私は、どこにでもいて、どこにもいない。長い年月を経て、ようやく見えてきた世界の裏側と新しい日常。ここは、私が拾い集めた断片を静かに吐き出す場所。通りすがりのあなたに、何が伝わるかはわからない。

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