田中誠一、48歳。江華島に来た理由はひとつだった。漁港で食べる、バンデンイ(밴댕이)の活け作り。鮮度が命の刺身において、産地直送の漁港というのは究極の環境である。ならば活け作りがあるに決まっている。そういう確信が、誠一を仁川から車で1時間半、分五里港まで連れてきた。
「バンデンイ(반뎅이)」は、ニシン科に属するサッパ(別名:ママカリ)という小魚のことです。標準韓国語では「パンジ(반지)」と言いますが、江華島を中心とした地域では「バンデンイ」の愛称で広く親しまれている。
問題は、バンデンイという魚の性格にあった。この魚は、極めて繊細である。というより、短気である。正確に言えば、生への執着がほぼない。網にかかった瞬間、「もういいや」とでも思うのか、そのまま静かに息を引き取る。漁師が手を伸ばす頃には、すでに事切れている。活け作りどころか、「活き」の状態を誰も見たことがない。
昔の韓国の漁師たちは、網にかかったバンデンイがブルブルと激しく震えてすぐ死んでしまうのを見て、「こいつは内臓(お腹の中)が狭すぎて、ストレスに耐えられずにすぐ怒って死んじゃうんだな」と考えていた。科学的には「空気に触れるとすぐ傷むから」というのが理由だ。
しかし誠一はあきらめなかった。まず戦略を立てた。魚というのは、人間の気配を察知するから逃げる。気配を消せば、生きたまま捕まえられるかもしれない。漁港に着いた誠一は、ゆっくりと、息を殺して、水槽に近づいた。まるでサバンナでライオンに忍び寄るナショナルジオグラフィックのカメラマンのように。
水槽の中にバンデンイはいなかった。

食堂のアジュンマに聞いた。アジュンマは、誠一の顔を見て、少しだけ間を置いた。その間には、親切心と、微量の哀れみが含まれていた。「活け作りはないよ」
漁師にも聞いた。漁師も、同じ顔をした。隣のテーブルで食事中の地元のおじさんにも聞いた。おじさんは箸を止め、誠一を見て、それからアジュンマを見て、また誠一を見た。そして静かに首を横に振った。
その時点で誠一は悟った。これは技術の問題でも、漁港の規模の問題でもない。バンデンイとはそういう魚なのだ。獲れた瞬間に死ぬ。宇宙の法則のように、覆しようがない。
誠一は席に着き、熟成バンデンイの刺身を注文した。うまかった。マッコリを頼んだ。追加で刺身を頼んだ。マッコリが空になったので、もう一本頼んだ。活け作りのことは、もう誰も考えていなかった。

江華島に来たなら、バンデンイは食べておいて損はない。脂の乗った青魚を一日寝かせた熟成刺身は、コチュジャン酢味噌で食べるのが江華島流。旬は4月から7月。ソウル市内ではなかなか出会えない、少しマニアックな一品だ。それでいい。旅の目的が、誰も知らない味を見つけることなら、バンデンイはその答えになる。誠一はその夜、マッコリとバンデンイで、最高の夜を過ごした。
因みにバンデンイは「すぐに死んでしまう気の短さ」や「内臓の小ささ」から、韓国では器の小さい人をからかう代名詞になっているのだとか。

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