北極の氷の下に、タコがいる
スーパーの冷凍コーナーに、タコが売っている。パッケージには「モロッコ産」とか「モーリタニア産」とか書いてある。誰も気にしない。タコはタコだ。でも待ってほしい。
北極海の水温は、マイナス1.8度前後だ。海水は塩分があるから0度以下でも凍らない。その水の中に、タコがいる。生きたまま。冷凍されてもいないのに。
タコは変温動物で、周囲の温度に体温が合わさっていく。つまり北極のタコの体温は、ほぼマイナス2度ということになる。スーパーの冷凍タコより冷たい。それで普通に泳いで、獲物を捕まえて、岩陰に隠れている。
ところで、タコの「頭」に見える丸い部分は、頭ではない。胴体だ。外套膜と呼ばれる袋で、中には内臓が詰まっている。これを料理するとき、指でもみもみすると、ぐにゅっとした感触とともに中身が動くのがわかる。ひとたまりもない。内臓はそのまま押し出せる構造になっていて、慣れた人は躊躇なくやるけど、初めてだと少し覚悟がいる。生き物を食べているという事実が、指先から直接伝わってくる瞬間だ。
北極海の氷の下は、暗くて、冷たくて、圧力が高い。人間が何の準備もなく潜ったら数分で死ぬ環境だ。でもそこには生態系がある。タコがいて、魚がいて、クラゲがいて、海底には無数の底生生物がいる。氷の裏側にはアイスアルジーという藻類が張り付いていて、それを食べるオキアミがいて、そのオキアミを魚が食べて、その魚をアザラシが食べて、そのアザラシをシロクマが食べる。氷の上と下で、ちゃんと世界がつながっている。

スーパーの冷凍タコは、解凍すると柔らかくなる。冷凍することで細胞が壊れて、むしろ食感がよくなる、という話もある。北極のタコは、最初からその温度に適応している。細胞膜の構造が違う。凍らないための、分子レベルの工夫がある。人間が技術で実現した「冷凍保存」を、タコはとっくに生き方として持っていた。
北極の氷が溶けている。このまま進むと、今世紀中に夏の北極から氷が消えるという予測がある。冷凍されることなく生きていたタコたちの住処が、少しずつ、温くなっていく。スーパーの冷凍コーナーで、モーリタニア産のタコを手に取りながら、そんなことを考えた。

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