ジェレミー・ベンサムは1832年に死んだ。
しかし今も、ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジ(UCL)のガラスケースの中に座っている。自分の服を着て、杖を手に、蝋で作られた頭を乗せて。
ベンサムはこの「自己像(オートアイコン)」を遺言で指示した。遺骸を防腐処理し、自分の服を着せて永久保存するよう求めたのだ。大学の評議会にこの像が持ち込まれることがあり、議事録には「ジェレミー・ベンサム——出席、ただし投票せず」と記録されているという。 
これはベンサム自身が望んだことであり、大学がその意志を今も丁重に引き継いでいる姿でもある。
功利主義とは何だったか
ベンサムの哲学の核心は「最大多数の最大幸福」だ。正しい行為とは、できるだけ多くの人をできるだけ幸福にするものである、という考え方だ。 
ベンサムはこの幸福を数値化しようとした。「快楽計算(felicific calculus)」と呼ばれる手法で、快楽の強さ、持続性、確実性など7つの要素を計算し、総計で快楽が多ければ善と判断する。 
これは18世紀の話だ。人間の幸福を数値で測ろうという発想は、当時としては革命的だった。
しかし問題があった。
ベンサムの幸福計算は発表当初から批判にさらされ、「そのような計算は現実にも理論上も不可能である」とにべもなく拒絶する学者もいた。幸福を数値化できないという欠陥は、功利主義最大の弱点として長く指摘されてきた。 
幸福は数えられない。それがベンサムの限界だった。
しかし今、人類は幸福を数えている
ベンサムが解決できなかった問題を、21世紀の人類は別の形で解決してしまった。
いいね、の数だ。
フォロワー数、再生回数、リツイート数——SNSはあらゆる感情を数値に変換するシステムだ。投稿した写真に何人が反応したか。自分の言葉が何人に届いたか。今日の自分の存在は何点だったか。
ベンサムが夢見た「幸福の数値化」は、プラットフォーム企業によって実現された。彼が望んだ形とはまったく異なる形で。
ベンサム先生に聞いてみたい
もしオートアイコンが口を開いたら、何と言うだろうか。
おそらく彼はまず喜ぶだろう。幸福が数値化できた、と。
しかし次の瞬間、考え込むはずだ。
SNSの「いいね」は、多数の快楽が一人の苦痛の上に成り立つことがある。誰かを傷つけた投稿が大量にバズる。数字は増えても、その裏で泣いている人がいる。総量が増えれば正義、とはならないはずだ。
さらに問題がある。いいねの数は、本当に幸福の量を表しているのか。
承認された瞬間の快楽は本物だ。しかしその快楽が消えた後、人は次のいいねを求める。際限がなくなる。それは幸福の追求ではなく、幸福の幻を追いかけることに近い。
数えられるものだけが幸福ではない
ベンサムはガラスケースの中で、投票せずに座っている。
彼が解けなかった問題は、解けたようで解けていない。数値化された幸福は、本当の幸福の一部に過ぎないかもしれない。
今夜、スマートフォンを置いて、誰にも見せない夕飯を食べた時間。数字に残らないその時間に、どれだけの幸福があったか。
ベンサム先生は、投票しない。

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