岡山の治水に隠れた功労者——津田永忠という男

後楽園を知っている人は多い。日本三名園のひとつ、岡山が誇る庭園だ。しかしその庭園を作った人物が、同時に洪水を止め、荒れ地を田畑に変え、運河を掘り、学校を建て、藩の財政まで立て直した人物だと知っている人は少ない。

津田永忠(つだながただ)。江戸時代前期の岡山藩士だ。

洪水との戦い

岡山城下を流れる旭川は流れが浅く、洪水の被害が絶えなかった。城下に壊滅的な被害をもたらした大水害のあと、永忠は旭川の越流堤から放水路へ水を分流させる仕組みを実現させた。

次の大洪水では城下の被害が軽微にとどまり、目に見えて成果が現れた。これが後の百間川の原型だ。

治水と開発を両立させた発想

当時、藩内には新田開発に反対する意見も強かった。しかし永忠は「治水も開発も」という両立の構想を立てた。洪水の水を海に流す仕組みを作り、その出口の先を田んぼにする。一石二鳥の発想だ。

沖新田干拓では約12キロメートルの堤防をわずか6ヶ月で完成させ、約1900ヘクタールの新田を生み出した。当時の技術の常識をはるかに超えるスピードだった。

一人の人間の仕事

後楽園の造園、国宝・閑谷学校の建設、百間川の開削、沖新田の干拓、藩の財政再建——これらを永忠はわずか20余年で成し遂げた。300年を経た今も岡山県の財産であり続けている。

永忠はもともと土木技術者ではなかった。藩校の経営や農民救済で手腕を発揮した文官だった。光政の死後は閑谷学校に左遷させられたこともある。左遷されても、戻ってからまた仕事をした。ただそれだけだ。

当時の評価、そして今

藩主・池田光政は永忠について「才は国中に並ぶ者なし」と述べていた。使い方さえ誤らなければ、その才能は藩に並ぶ者がいないほどだと評していた。そのテクノクラートとしての名声は「佐源太造り」「永忠普請」という言葉で当時の人々に語り継がれた。

しかし不思議なことに、その名は長く埋もれた。1885年、明治天皇が岡山に行幸した際に問いかけたことを契機に永忠の存在が改めて明らかになり、天皇は「永く名をとどめよ」と仰ったとされる。現代においても「一般には馴染みがないかもしれない」と土木史の専門家でさえ認めるほど、その知名度は高くない。

2018年の西日本豪雨で岡山市内が大きな水害を免れたのは、百間川が機能したからだという。350年前に一人の藩士が掘った放水路が、今も街を守っている。

後楽園に行くなら、その庭園を作った人間が同時に何をやっていたかを思い出してほしい。 そして、その名前を誰かに話してほしい。津田永忠という男がいた、と。

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この記事を書いた人

tokaijiruのアバター tokaijiru 都会汁代表

都会汁。私は、どこにでもいて、どこにもいない。長い年月を経て、ようやく見えてきた世界の裏側と新しい日常。ここは、私が拾い集めた断片を静かに吐き出す場所。通りすがりのあなたに、何が伝わるかはわからない。

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