主人公の紹介
小森史郎、36歳。 彼女いない歴、36年。つまり生まれてから一度も、だ。
体重63キロ。肩幅は普通。趣味はゲームと動画鑑賞。休日はだいたいソファの上で過ごす。会社では「いい人だよね」と言われる。それが一番つらい。
もてたい。切実に、もてたい。
史郎が選んだのが日焼けサロンだった。 たわけ!
史郎が選んだのがエステで脱毛だった。 愚か者め!
男なら土俵を目指す。もちろんブフだ。
ブフとの出会い
きっかけはある夜、動画サイトで偶然流れてきた映像だった。
広大な草原。民族衣装をまとった男たちが、どしどしと集まってくる。組んで、投げて、ぼかんと倒れる。観客が沸く。倒された男がぐっと立ち上がる。
史郎はソファから身を乗り出していた。「これだ」
何がこれだとは説明できなかった。でも36年間眠っていた何かが、むくりと起き上がった気がした。
最初の一転がり
都内にブフの道場があった。
史郎はおそるおそる扉を開けた。中にいたのはでかい人間ばかりだった。首が太い。肩が広い。史郎の倍くらいある人間がごろごろいた。
「よし来た、やってみろ」
最初の組み合いで、ふわっと浮いて、どすんと落ちた。 マットの匂いがした。でも砂を吐く気分は、たぶん草原と同じだった。
むちを打つ日々
それでも史郎は通い続けた。週二回。へろへろになりながら道場へ向かった。
最初の三ヶ月は、ただ転がされ続けた。転がされた数、おそらく三桁。
でも転がされるたびに、立ち上がるのが少しずつ速くなった。組んだ瞬間に相手の重心がわかるようになってきた。ひ弱な体に、じわじわと芯が通ってきた。
そしてナーダムへ
道場の仲間から声がかかった。モンゴルで開かれる地方のナーダムに参加しないか、と。
史郎は有給を使った。初めての一人海外だった。
草原に着いた瞬間、風がびゅうと吹いた。空が広かった。地平線がはるか遠くにあった。
512名のトーナメント。一度負けたら終わり。上位16位以内に残った者だけが、称号をもらえる。 史郎は深呼吸をした。
一回戦、二回戦、三回戦、四回戦、五回戦
一回戦。相手がでかかった。でかい木に激突した感じで、秒で転がされた。
二回戦。今度は粘った。三十秒は耐えた。でも転がされた。
三回戦。史郎は初めて相手をぐらつかせた。草原に、史郎のぐらつきが起きた。最終的には負けたが、ぐらついた。
四回戦。組んだ瞬間、重心がわかった。道場で三桁転がされてきた体が、勝手に動いた。どすんと相手が倒れた。史郎は天を仰いだ。空が青かった。
五回戦。相手は強かった。転がされた。
史郎の戦績は、一勝四敗だった。トーナメントは終わっていた。称号など、もちろんない。
草原からのはなむけ
史郎が荷物をまとめていると、大会の長老格の男が近づいてきた。通訳を介して、こう言った。
「日本から一人でここまで来て、草原で転がされ続けて、それでも立ち上がった。それはブフの精神だ」
男は首飾りを取り出した。
「ルールにはない。でもわれわれはあなたにナチンを贈りたい」
ナチン。隼の称号。本来ならベスト16だけがもらえるものだ。 会場にいたフテチたちが、静かに拍手した。
史郎は受け取った。一勝四敗の日本人が、隼の称号を受け取った。
これはモンゴル人たちのやさしさだった。でも同時に、真剣に挑んだ史郎へのはなむけでもあった。草原をなめて来た男には、絶対に渡さないものだった。
史郎は草原に向かって、深々と頭を下げた。風がびゅうと吹いた。
婚活パーティーという、次の草原
モンゴルから帰った史郎は、少し変わっていた。
背筋が伸びていた。歩き方が変わっていた。「いい人だよね」と言っていた同僚が「最近なんか違うね」と言った。
友人に誘われた。婚活パーティー。史郎は断らなかった。
会場の扉の前に立った。中からざわざわした声が聞こえた。
史郎は目を閉じた。草原を思い出した。長老の顔を思い出した。どすんと倒れた相手を思い出した。
扉を開けた瞬間、シャバーをした。獅子の体をした鷹のイメージで羽ばたきながら入場し、2回2方向に舞い降りた。
会場が静まり返った。
三秒の沈黙のあと、どっと笑いが起きた。でも笑いの中に、興味があった。「なにあれ」「なんかすごい」という声が聞こえた。
史郎は太ももをぱんぱんと叩いて、席に着いた。
その日、史郎は連絡先を三人に渡した。彼女いない歴36年の男が、一晩で三人だ。
締めに
もてるために日焼けサロンへ行く男がいる。エステで肌を整える男がいる。
でも史郎が手に入れたものは、日焼けでも脱毛でもなかった。
転がされ続けた体。立ち上がり続けた足。草原で泣いた記憶。そして、見知らぬ国の男たちからもらった首飾り。それが、背筋を伸ばした。
背筋が伸びた男は、何もしなくても少し違う。それだけの話だ。
ブフへ行け。 アルスランは遠い。でも隼なら、史郎でもなれた。

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