イカ墨というものがある。あの真っ黒な液体だ。イカスミパスタで口が真っ黒になって鏡を見て軽く後悔した経験がある人は多いだろう。しかしあれをただの「黒いソース」だと思っていたなら、それは大きな誤解だ。
イカ墨の色素成分はメラニンで、アミノ酸を含み、粘性が高く、食材としての価値が高い。イカ墨が海中で拡散することなくイカのような形を保っていられるのは、ヒアルロン酸やコンドロイチン硫酸など関節の動きをスムーズにする働きをもつムコ多糖類が含まれているためだ。
さらに。イカ墨の色素の主成分であるメラニンには抗菌作用や整腸作用、血流を良くする働きがある。最近ではイカ墨に含まれる特定の成分が癌に対して効果があるとして注目されており、実験ではマウスに癌細胞を注入した後イカ墨の成分を投与したところ、癌が治るか生存期間が延びる効果が見られたという。
沖縄では、出産した女性が最初に食べる料理としても用いられ、のぼせや頭痛、肩こり、産後の回復によいとされてきた。つまりイカ墨は、美味しくて、体に良くて、美容にも効く。これをパスタにかけて口を真っ黒にしている我々は、気づかずに最強の食材を摂取していたわけだ。
ちなみに。イカを漢字で「烏賊」と書くのは、中国の古い物語によると、イカが海面で休んでいると烏が飛んできてイカが死んでいると思い捕らえようとしたところ、イカは急降下してきた烏を捕まえて海面に引き入れ烏を食べてしまったという話から「烏賊」と書き表されるようになったという説がある。烏を食う。イカのくせに、なかなかやる。
そしてイカは、頭がいい。 イカの脳は脊椎動物に匹敵するほど発達しており、学習能力と記憶力を持つ。敵の顔を覚え、状況を判断し、墨を「煙幕」ではなく「分身」として使う。イカの墨は一旦紡錘形にまとまり、自分の体と似た形のものを出して敵がそちらに気を取られているうちに逃げる。身代わりに旨味まで入れて敵を釣るとは、策士にもほどがある。
では、どのイカを狙うべきか。 イカの中でもダントツで墨の量が多いのはコウイカだ。リゾットやパスタで大量に墨が必要な場合はコウイカを狙うといい。スルメイカはコウイカに比べ墨の量は少ないが入手しやすく、濃厚な肝と墨が特徴で黒作りの塩辛に最適だ。お正月に羽子板で負けて顔に墨を塗られる場面があるが、あれもイカ墨なら肌への影響は心配ない。むしろ保湿効果まで期待できる。敗者の顔がツヤツヤになる可能性がある。
間違っても大王イカを狙ってはいけない。 ここで一人の男の話をしなければならない。木村義三。イカ墨研究家にして、生涯をイカ墨に捧げた伝説の男だ。「究極のイカ墨は究極のイカから取れる」という信念のもと、最大で全長18m、体重500kgに達するとも言われるダイオウイカに単身挑んだ。
水深600メートルの深海へ。帰ってこなかった。遺品は潜水服と、白紙のレシピノートだけだった。墨は、なかった。
木村義三が知らなかったこと——そもそもダイオウイカが墨袋を持つかどうか、科学的に確認されていない。そして仮に持っていたとしても、深海600メートルで1人で向かう相手ではない。コウイカかスルメイカにしておけ。それが木村義三の遺言だ。

コメント