シェムリアップの先にある「もう一つの場所」
シェムリアップへ行ったら、一ノ瀬泰造の墓へ行こう。アンコールワットを見た。感動した。写真を撮った。ホテルに戻った。それだけで帰るなら、もったいない。シェムリアップから北東へ20キロほど走ったところに、田んぼの中にぽつんと立つ墓がある。
戦場カメラマン・一ノ瀬泰造の軌跡
一ノ瀬泰造とは何者か。1947年、佐賀県武雄市生まれ。日本大学芸術学部写真学科を卒業後、フリーランスの戦場カメラマンとして活動を始めた。1972年、内戦中のカンボジアに入国。クメール・ルージュの支配下にあったアンコールワットへの単独潜入、いわゆる「一番乗り」を目指した。
1973年11月、親友カンボジア人教師の結婚式に出席した後、「旨く撮れたら、東京まで持って行きます。もし、うまく地雷を踏んだら”サヨウナラ”!」と友人宛に手紙を残し、単身アンコールワットへ潜入、以後消息を絶った。享年26歳。
9年後の1982年、シェムリアップから14キロ離れたプラダック村にて遺体が発見された。1973年11月22日もしくは23日にクメール・ルージュに捕らえられ、29日に処刑されていたことが判明した。アンコールワットにたどり着けたのか。最後に何を見たのか。それは今も誰も知らない。
未舗装路の先に眠る「タイゾー」
墓への道。トゥクトゥクのドライバーに「タイゾー」と言えばいい。カンボジア人の間でも一ノ瀬泰造は知られており、「タイゾー!タイゾー!」と言えばだいたいのドライバーには伝わる。アンコールワット方面へ進み、大回りコースのプレループを過ぎて東へ抜ける。バンテアイスレイへ向かう南北の道との交差点から、未舗装の細い砂利道に入る。
舗装されていない。田んぼの真ん中だ。雨季には足元がぬかるむ。木の板が渡してあるだけの橋を渡る。その先に、ひっそりと墓がある。観光地ではない。案内板もない。ガイドブックにも載っていないことが多い。それでもここに来た人のノートには、何度も訪れている日本人の名前が並んでいる。
墓の前の小屋には、生前の一ノ瀬泰造の写真と、彼がアンコールワットへ出向く直前に撮影した、内戦で砲火が飛び交う中で行われたカンボジアの結婚式の写真が展示されている。その写真もノートも、熱帯の湿気と虫食いでボロボロになっている。「きふ」と書かれた募金箱がある。有志の寄付でこの墓は守られている。線香を上げて、少額でいいから箱にお金を入れてほしい。
風化する記憶のデジタル化を願って
ノートと写真の、これから。ここに来る人がいる限り、ノートは書き続けられる。しかしノートは朽ちる。写真は色褪せる。熱帯の気候はすべてを劣化させる。
思う。このノートをデジタルに保存することはできないか。訪れた人の手書きの言葉を、スキャンして残すことはできないか。写真や資料を、クラウドに上げることはできないか。技術的には難しくない。スマートフォン一台あれば今日からでも始められる。泰造が愛したカンボジアの記憶を、次の世代に渡すために。誰かやってほしい。あるいは次にここを訪れたあなたが、やってほしい。
カンボジアの正しい味
道中の蒸し饅頭。シェムリアップからプラダック村へ向かう途中の道端に、蒸し饅頭を売る屋台がある。カンボジアの蒸し饅頭は、小麦粉の生地に甘い豆餡や椰子砂糖が入っている。蒸籠から湯気が上がっていて、値段は数百リエル、日本円で数十円だ。
必ず食べてほしい。観光地のレストランでは食べられない味だ。田んぼの道を走ってきて、少し汗をかいて、屋台のおばちゃんから買う蒸し饅頭—それがカンボジアの正しい味だと思う。
今も愛され続ける場所
一ノ瀬泰造の墓は今でも現地の人に守られている。立派な施設ではない。観光客が押し寄せる場所でもない。でも誰かが毎日掃除をして、花を供えて、祈っている。彼が愛したカンボジアは、今もそこにある。

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