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とらやをもう一度。屋台シリーズ vol.5

1975年の映画「男はつらいよ 寅次郎相合い傘」に、伝説のシーンがある。旅先でお世話になったサラリーマンから、寅さんが高級メロンをもらった。当時メロンといえば、入院のお見舞い品か仏壇のお供えにしか登場しない超高級品だ。庶民はバナナがせいぜいだった時代の話だ。

寅さんが外出している間に、おばちゃんが冷蔵庫からメロンを取り出し、人数を指折り数えて「六人だねッ!」と断言。そのまま切り分けて食べ始めた。そこへ寅さんが帰ってくる。みんなが慌てて自分の食べかけを差し出すと、寅さんは言う。「わけを聞こうじゃねえか。どうしてみんなの唾のついた汚ねえ食いカスを、オレが食わなくちゃならねえんだい?」

そして名台詞が飛び出す。「バカヤロウ!オレの言ってるのはメロン一切れのことを言ってるんじゃないんだよ!この家の人間の心のあり方についてオレは言ってるんだ!」

怒って、泣いて、謝って、笑って——一切れのメロンをめぐって、とらやの茶の間がひっくり返る。これが「喜怒哀楽」というものだ。悲しいだけでも、楽しいだけでもない。全部が一緒くたになって、それでも最後は家族でいる。今、あのとらやはどこにあるのか。

駄菓子屋のおばあちゃんを、公務員にせよ。駄菓子屋のおばあちゃんは、経営として成立していない。原価で売れば利益は出ず、人件費を計算すれば赤字だ。後継者もいない。跡地はコンビニになる。しかしあのおばあちゃんが担っていたものは、駄菓子の販売だけではなかった。

学校帰りの子どもたちの溜まり場。宿題を見てもらえる場所。叱ってくれる大人がいる場所。地域の子どもたちにとって、あの店は「もう一つの家」だった。そういう機能に、誰もお金を払わなかった。だから消えた。しかし考えてみてほしい。児童館の職員は公務員だ。図書館の司書も公務員だ。ならば駄菓子屋のおばあちゃんを、地域コミュニティの維持という公益のために、公務員として存続させることの何がおかしいのか。採算が取れないから消える——それだけが正解ではない。

赤提灯が消えた夜に、若者はスマホを開く。かつて日本には赤提灯文化があった。仕事帰りのサラリーマンが、一杯ひっかけながら上司の愚痴をこぼす。隣の知らないおじさんと「そうだよな」と頷き合う。それだけで、翌朝また会社に行けた。

しかし今、若者はお酒を飲まない。赤提灯の前を素通りして、部屋に帰る。愚痴る先はSNSだ。あるいはAIだ。もちろん、どちらも便利なツールだ。活用すればいい。しかしSNSは炎上するかもしれない。AIは正確だが、温かくはない。「そうだよな」と一緒に飲んでくれる人間ではない。

仏教に「縁起」という概念がある。全てのものは単独では存在せず、他との関係の中にのみ存在する、という考え方だ。人は人との縁の中でしか生きられない。面白いのは、中国語で「人間」という言葉だ。日本語では「人間=ひと」を意味するが、中国語の「人間(rén jiān)」は「世間」「人の世」を意味する。人間とは、人と人の間にある何かのことだ。人は1人では人間になれない。

では、どうするか。屋台だ。屋台には、全部ある。

見知らぬ誰かと肩を並べる縁がある。おやじに「おう」と声をかけてもらえる場所がある。メロン騒動のような喜怒哀楽が生まれる余地がある。愚痴を聞いてくれる隣の人間がいる。子どもが立ち寄れる灯りがある。とらやの茶の間も、駄菓子屋のおばあちゃんも、赤提灯も——屋台はその全ての役割を、一つの屋根の下に持っている。

屋台は食べ物を売っているのではない。人間と人間の「間」を売っている。屋台、バンザイ。

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この記事を書いた人

tokaijiruのアバター tokaijiru 都会汁代表

都会汁。私は、どこにでもいて、どこにもいない。長い年月を経て、ようやく見えてきた世界の裏側と新しい日常。ここは、私が拾い集めた断片を静かに吐き出す場所。通りすがりのあなたに、何が伝わるかはわからない。

Tokaijiru.
I am everywhere, yet I am nowhere.After all these years, I have finally begun to see the hidden side of this world and the dawn of a new reality.This is a quiet space where I release the fragments I’ve gathered along the way.What these echoes mean to a passerby like you, I cannot say.

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