重慶大厦に憧れていた。 ウォン・カーウァイの「恋する惑星」を観て以来、いつか行きたいと思っていた。ネイザンロード沿いに立つ17階建ての巨大な雑居ビル。両替商、南アジア料理屋、アフリカ系の商人、バックパッカー、そこに暮らす人々——あらゆる国籍、あらゆる事情を持った人間が、ひとつのビルの中で重なり合って生きている。サイバーパンクの小説に出てきそうな、現実とは思えない密度の場所だ。
実際に足を踏み入れたとき、その密度は想像以上だった。エレベーターを待つ列に、五カ国語が飛び交っていた。廊下はせまく、すれ違うたびに肩が触れた。どこかから香辛料の匂いがしていた。古いビルの配管が、壁の向こうで音を立てていた。これは映画のセットではなく、ここで実際に生活している人たちがいるのだと、当たり前のことをあらためて思った。観光客である自分が、その日常にお邪魔しているのだという感覚。リスペクトという言葉が、自然と浮かんだ。
ただ、現実はある。 重慶大厦、または香港の古い雑居ビルに泊まると、部屋に入ると、天井の隅に隙間があった。壁との継ぎ目にも、説明のつかない暗がりがあった。古いビルだから当然だ。それはわかっている。わかっているのだが、私には持病がある。ヤツらを見ると、朝まで気絶する体質だ。
医学的な正式名称は知らないが、症状は明確だ。遭遇した瞬間に意識が遠のき、気がつくと朝になっている。おかげで睡眠の質は抜群だった。あの夜、ヤツらが出たかどうかは定かではない。ただ、私は朝までぐっすり眠った。
備えについて、少し真面目に書いておく。 香港でのヤツら対策グッズは、現地調達が十分に可能だ。ネイザンロード沿いにはセブンイレブンとサークルKが目につく間隔で並んでいる。ワトソンズやマニングスといったドラッグストアも多い。殺虫スプレーや忌避剤は棚に普通に並んでいるので、チェックイン前に一本確保しておくことをお勧めする。
せっかくネイザンロードの話が出たので、少し寄り道する。ネイザンロードは九龍半島を南北に貫く大通りで、地元では「ゴールデンマイル」と呼ばれている。高層ビルのネオン、露店、人混み、二階建てバス——夜になると看板の光が路面に反射して、どこを切り取っても絵になる。
特にモンコック側から南を向いて撮影した夜景は、写真好きの旅行者に人気だ。ネオンと人と喧騒が縦に積み重なって、フレームに収まりきらない密度がある。ブレードランナーや攻殻機動隊が好きなら、きっと気に入る。そのネイザンロードを、二階建てバスの最前列で眺めるのが最高だ。
せっかく九龍まで来たなら、もうひとつ外せない場所がある。 九龍城砦跡だ。かつてこの地には、行政の管轄が曖昧なまま無秩序に増殖した巨大な城塞都市が存在した。建物が建物の上に重なり、光の届かない路地が迷宮のように広がり、独自の経済と秩序で動いていた。
1994年に取り壊され、現在は九龍城砦公園として整備されている。ただ跡地には当時の展示があり、建物の基礎の一部も残されている。のんびり歩きながら、あの密度の都市がここにあったのかと想像するだけで、時間が溶ける。
重慶大厦に泊まることに踏み切れない人も、建物の中には気軽に入れる。 一階のフロアには両替商が並び、南アジア系のレストランが密集している。ここで飲むチャイと、食べるインドカレーは本物だ。観光地価格でもなく、過度に観光客向けに調整されてもいない。香港にいながら、全然別の国にいるような感覚になる。それだけでも、立ち寄る価値は十分にある。
重慶大厦は、万人向けの観光地ではない。ただ、刺さる人には深く刺さる場所だ。あの密度と混沌と、そこにある確かな生活は、他のどこにも代えられない。ただ、圧倒される場所ではあるので、はじめて訪れるなら昼間から行くのが無難だ。旅慣れていない人は、事前にYouTubeで雰囲気を確認しておくといい。映像で見ておくだけで、現地での体感がずいぶん変わる。行くかどうかはそれから決めても遅くない。

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