穴だらけの戦闘機が基地に帰ってきた。翼に穴。胴体に穴。尾翼に穴。よくぞ帰ってきたと思うほど、あちこちに被弾の跡がある。軍の担当者は考えた。穴が多い場所を補強すれば、撃墜を減らせるはずだ。合理的に見える。
統計学者エイブラハム・ウォールドはそれを聞いて、首を振った。帰還した航空機が損傷を受けていない部位を補強することを提案した。帰還した航空機に空いた穴は、爆撃機が損傷を受けても安全に帰還できる場所を表しているからだ。
つまりこういうことだ。翼に穴を開けられても、飛行機は帰ってくる。だから翼の穴が記録される。エンジンに被弾した飛行機は帰ってこない。だからそのデータは存在しない。帰還した機体を見渡せばエンジン付近に穴がない—しかしそれは「エンジンは撃たれていない」のではなく、「エンジンを撃たれた機体は一機も戻っていない」ことを意味する。
見えているデータが、答えを正反対に教えていた。これを生存者バイアスという。生き残ったもの、帰ってきたもの、記録されたものだけを見て判断することで生まれる、致命的な思い込みだ。
さて、自転車の話だ。交差点に警察官が立っている。自転車の違反を取り締まっている。一時停止無視、スマホ操作、信号無視—次々と検挙されていく。検挙数は順調に積み上がる。
しかし問いかけてみたい。その検挙数は、何のデータか。それは「捕まえられた違反」のデータだ。「捕まえやすい場所」で「捕まえやすい違反」を「捕まえやすい時間帯」に検挙した記録だ。
では「実際に事故を起こした自転車の違反」のデータはどこにあるか。深夜の住宅街で無灯火のまま一時停止せずに飛び出して自動車と衝突した自転車。その違反は、事故報告書には残るかもしれないが、取り締まりの検挙数には入らない。見通しの悪い交差点で毎朝危険な追い越しが行われている場所は、警察官が立っていないから記録されない。
帰ってこなかった飛行機と同じだ。事故につながった違反は、取り締まりの網に引っかかっていない。だから見えない。取り締まりのリソースを「検挙しやすい場所」に集中させることは、帰還した機体の翼を補強し続けることと変わらない。
前回のマクナマラとどう違うか。マクナマラが犯した誤りは「数値で測れるものだけを信じた」ことだった。ベトナム人の愛国心、反戦感情、戦場の摩擦—それらは数字にならないから無視された。
ウォールドが指摘する問題はもう一段深い。測っている数字そのものが偏っている、という話だ。マクナマラは「計測できないものを無視した」。生存者バイアスは「計測しているつもりが、肝心なものを計測できていない」という罠だ。
どちらも「手元の数字が現実の全てだ」という思い込みから生まれる。しかし性質が違う。マクナマラの誤りは意識的な無視に近い。生存者バイアスは、本人が気づかないうちに起きる。より厄介なのは後者だ。
検挙数を上げれば、事故は減るのか。減らないかもしれない。少なくとも、その検挙数が「危険な違反」を正しく反映していなければ、何も変わらない。
本当に問うべきは、どこで、どんな違反が、どんな事故につながっているか—その因果関係だ。帰ってきた飛行機の穴ではなく、帰ってこなかった飛行機がどこを撃たれていたかを問うことだ。
見えているものを強化しても、見えていないものが牙を剥く。ウォールドはそれを、80年前に教えていた。

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