秋貞という男がいた。全国を旅しながら、クワで溝を掘る速さを競い、負かした相手のクワを奪ってまわる——そういう生き方を選んだ男だ。理由は聞くな。そういう男がいるのだ。
その手には今や999本のクワがある。グングニル。闇烏。名も知れぬ鍛冶師が命を削って打った業物たち。すべて秋貞の掌中に収まっている。そして秋貞は、千本目に狙いをつけた。
山あいの村に、農業指導者として名を馳せる男がいる。名を、重敏という。村人たちは言う。「あのクワふりを見ていたら、女房のリウマチが治った」と。あくまで噂ではあるが、頼りない風貌にもかかわらず、重敏を師とあおぐ者はなぜか多いのだ。
秋貞が村に現れた朝、重敏は畑で鼻歌を歌っていた。秋貞は名乗りをあげ、勝負を申し込んだ。重敏はしばらく考えてから言った。「わかった。負けたらクワは渡せない。これないと飯食えないから」。秋貞は聞かなかったことにして勝負の合図を告げた。
秋貞のクワさばきは、見る者の目を奪った。999本の戦いで磨かれた技は、もはや職人芸の域を超えている。リズムは完璧、深さは均一、土の返し方に無駄がない。見物に集まった村人たちがどよめいた。「名人だ」「あんな溝掘り見たことない」「うちの亭主にも見せたい」。
しかし重敏は、あくびをしていた。そして重敏がクワを握った瞬間、空気が変わった。
腕が動く。あまりの速さに、腕が無数に増えているかのように見える。その姿まさに千手観音のごとく。クワが土を割り、土が空を飛び、溝が生まれる。その一連の動作に、人間の動きを律する時間という概念が介在していない。ただ、溝が出来ていく。
秋貞は自分の手を見た。止まっていた。勝負は、終わっていた。秋貞は999本のクワを地に置いた。膝をついた。「師匠と呼ばせてください」と言った。それは秋貞が生まれて初めて他人に向けて発した敬称だった。
その瞬間だった。千手観音の勢いは、まだ止まっていなかった。重敏の体は、ゆっくりと、しかし確実に、肥溜めの方向へ傾いていった。スローモーションだった。見物人全員が見ていた。全員がわかっていた。止められる者は誰もいなかった。千手観音の体勢のまま、重敏は弧を描き、そして落ちた。
みじめだよー!
見物していた村人たちは、何も言わずに、何も見なかったことにして、それぞれの家に帰り、床に就いた。明日も農作業がある。それだけが真実だった。
秋貞は立ち上がった。999本のクワを、一本ずつ拾い集めた。それから村の自販機で発泡酒を買い、家に帰っていった。無理もない。師匠がうんこまみれでは、悲しすぎるのだ。

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