和歌山県那智勝浦。JR紀勢本線の那智駅を出ると、すぐそこに石碑がある。刻まれているのは「秋刀魚の歌」。詩人・佐藤春夫が1921年(大正10年)に発表した作品だ。
秋刀魚を食べながら涙を流す男。秋風に向かって、その孤独を伝えてほしいと訴える詩。庶民の食べ物を詠んだ、叙情的な秋の詩——と読めば、そう読める。しかしこの詩には、背景がある。
始まりは、友人の妻への同情だった
佐藤春夫は和歌山県新宮市出身の詩人・小説家だ。作家の谷崎潤一郎とは親交が深く、年齢は谷崎が6歳上。谷崎が佐藤の才能を文壇に推した、師弟に近い関係だった。
谷崎は妻・千代の妹せい子に惹かれ、千代をないがしろにするようになった。千代を憐れんだ佐藤が彼女の悩みを聞くうちに深い仲に陥ってしまった。同情が恋心に変わった佐藤は、正直に谷崎に打ち明けた。谷崎は千代と離婚すると約束した。
ところが谷崎はせい子に振られる。千代からも去られるのが耐えられない谷崎は、約束を反故にした。佐藤は激怒し、絶縁状を叩きつけた。これを「小田原事件」という。
「秋刀魚の歌」はその直後に生まれた
詩の中に、こんな場面がある。女の児が「父ならぬ男」にさんまの腸をくれようとする。みかんの酢をしたたらせながら食べる秋刀魚。そしてひとり涙を流す男。
千代と別れた春夫は、千代と娘・鮎子と3人でみかんの酢をしたたらせながら秋刀魚を食べた日々を思い出し、一人涙を流しながら秋刀魚を食べている。もう会えない辛さを秋風に伝えてほしいとの思いを込めて詠んだのが秋刀魚の歌だった。
「父ならぬ男」とは春夫自身。「人に捨てられんとする人妻」は千代。「女の児」は谷崎の娘・鮎子だ。これは失われた家族の夕餉の記憶であり、親友への恨みを込めた詩だった。谷崎は千代の目に入らないようにと、この詩が載った雑誌を近所の本屋で買い占めたという逸話が残っている。
世間の反応と、ことの顛末
昭和5年(1930年)、谷崎が別の女性と結婚するために千代と別れると、春夫は自分の妻と離婚して千代と一緒になった。谷崎と佐藤、千代の三人連名の挨拶状が新聞に掲載されると「妻君譲渡事件」として世の中は騒然となった。
批判を主に浴びたのは谷崎ではなく、人妻の身でありながら佐藤と恋仲に陥った千代だった。そして一番ひどい目にあったのは、騒動と関係のない娘だった。鮎子は聖心女子学院に通う女学生だったが「乱れた家庭の娘を通わせるわけにはいかない」として退学を余儀なくされた。
その後の谷崎と佐藤
千代は鮎子を連れて佐藤家に嫁入りし、後に鮎子は佐藤の甥と結婚した。佐藤家と谷崎家は縁戚関係となった。かつて絶縁した二人の文豪は、最終的に親戚になった。谷崎はその後も元妻と娘の新生活に気を配り、佐藤との友情も終生変わることはなかった。
千代自身については、谷崎の妻だった頃は夫に従順で泣き虫だったが、佐藤の妻となってからはとても明るく、時に夫を尻に敷くくらいに朗らかになったという。
谷崎の小説との対応
この騒動は谷崎作品に影を落としている。『蓼喰う虫』には子供がいる手前なかなか離婚できない仮面夫婦が登場し、このときの体験がもとになっているとされる。また『痴人の愛』のヒロイン・ナオミのモデルは千代の妹せい子で、谷崎を翻弄した彼女の姿を描いたとされている。
似たような話は海外にもある
19世紀初頭のイギリスでも、驚くほど似た構造の話がある。メアリー・ゴドウィン(のちのメアリー・シェリー)は1814年、当時既婚だったパーシー・シェリーと恋に落ち、身重だった妻を残して駆け落ちした。
シェリーは「自由恋愛」を唱える詩人で、メアリーの義妹クレアとも関係を持ったとされる。クレアは詩人バイロンに近づき、バイロンの子を身ごもった。シェリーとバイロン、メアリーたちは1816年の夏にスイスのジュネーヴ湖畔に集まり、嵐で屋内に閉じ込められた際に怪談話を書くことになった。そこでメアリーが生み出したのが『フランケンシュタイン』だった。
作家同士が互いの妻や恋人を巻き込み、複雑な関係を文学に昇華させる——という構造は、時代も国も関係なく繰り返される。
那智勝浦の石碑に刻まれた詩は、表面だけ読めば秋の情景を詠んだ叙情詩だ。しかしその行間には、失った家族の夕餉と、裏切られた怒りと、どうにもならない喪失感が漂っている。
さんま苦いか塩っぱいか。

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